さいたまクリテリウムでの発言に関して

さいたまクリテリウムでの発言に関して

 

こんにちは、まず皆さまに、Twitterでの一連のご無礼を深くお詫び申し上げます。

 

それが、感情に任せて記し公開したものであるのは、皆さまがご覧いただいた通りでございます。とても不快な思いをさせてしまいすみません。この事実に関しては、一切弁解は出来ません。再びこのようなことの無きよう、頂いた言葉を胸に留めておきたいと思っております。

 

今回の私の発言は、さいたまクリテリウムに対しての世間の発言に、捕らえ所の無い大きな違和感を覚えたからでございます。もちろん、世間の皆さまに非がある訳でもなく、私自身の度量の小ささがあのような行動の原因でございます。

 

私がなぜここまでの違和感を感じたのか?問題はそこではないのは承知しております。また、今回のご迷惑をおかけした皆さまに、文章などを読んでいただける身分ではございません。

 

その上で、誠に申し訳なく思っておりますが、今回の皆さまの言葉を改めて読み直して、ようやく見えてきたことの一部を以下に記してまいります。ご迷惑をおかけしたのはTwitterでしが、同じ媒体での140文字の連続では、さらにタイムラインをさらに汚してしまうので、この度臨時でブログを開設いたしました。

 

  

当然のことながら、サイクルレースの楽しみ方は人それぞれであり、レースへの思いや行動は表面に出て来たもの、根底には言葉で表していないそれぞれの何かがある。

 

 

まず、少しだけ自分の経験談にお付き合いください。

 

私はこれまで、多くのサイクルロードレースを見てきました。20年以上前から、現地でもテレビでも、それこそインターネットでも、血眼になって野良放送を探してでも見続けて来ました。自分にとって、レースを見ることはほぼ日課であり、今のJスポーツが始まった1998年のツールから今まで、日本でライブで見られるレースは、ほぼ全て見てきたかもしれません。

 

その中でも、2001年のパリ〜ルーベは、とても懐かしい思い出です。まだ当時は、Jスポーツでもクラシックレースの放送が開始しておりませんでした。どうしても北のクラシックでのヨハン・ムセウの走りが見たくて、なんとかインターネットで生中継のようなものを探し当てました。

 

それは、ADSL回線がまだ自宅まで来ておらず、とても遅い回線で、自分達が通称「紙芝居」と呼んでいたものです。おそらくベルギーの誰かが、ベルギーでのテレビ放送のライブを、極東の国まで届く方法で送ってくれていたのでしょう。数秒に一度、ガラケーの画面よりも小さい写真が切り替わり、なんとかレースの"変化"を知る程度のものでした。

 

音声は無く、私は切り替わるその画面を、ずっと見続けておりました。そこまでして、なぜレースのライブを見るのか?それは、レースの勝敗を見届けたいという強い思いです。その思いは、「だれが勝つのかを知りたい」のとは違います。勝敗を見たいではなくて、見届けたいのです。

 

その日は泥のレースで、終盤の膠着状態の中から、エースのムセウの指示で、セルファイス・クナーフェンが飛び出し逃げ切った展開だったと覚えています。数秒毎に替わる小さく荒い画面の中で、勝敗の分かれ目を見逃さないよう、ずっと見入っていました。また後日、保存した紙芝居をスライドショーで再生して、振り返ったりもしていました。

 

翌年からは、Jスポーツでも北のクラシックの放送が始まり、快適な視聴となるのですが、そこまでしてもレースを見続けていたのです。正にレースの勝負マニアです。レースの動きを、アタックを全て見たい、勝負の瞬間を見逃したくない、勝敗の決した理由を知りたい。そういう視点で見続けてきました。

 

  

ニコニコ動画にありましたので、リンクを張っておきます。

パリ~ルーベ2001ドキュメンタリー by magsaysay スポーツ/動画 - ニコニコ動画

 

 

Jスポーツも始まっていない頃は、数週間後に書籍でしか結果が分かりませんでした。インターネットが利用出来ても、cycling newsで数分後にトップ10がわかる程度で、すぐにレースの勝敗が決した理由は分からず、今の状況が天国のようでもあります。

 

実は生中継は、レースをライブで見ることに当然価値があるのですが、それ以上にレースの勝敗が決した理由を、自分の目で見つけて、自分で考え決めることが出来るのが魅力なのです。

 

これがライブでなかったら、それまでに入ってきた情報により、完全な自分の考えではなくなります。他の論評との比較も楽しみではありますが、やはりライブで観戦したいものです。

 

当然、例え情報が少なくても、現地での観戦が最も重要だとも思っております。

 

そんな自分からしましたら、さいたまクリテリウムのレース主催者や、チーム関係者や選手が、優勝者が決まっているのに、あたかも真剣勝負の体で宣伝して、コメントを出し、多くの観客を集め、そして走ることが、全く同意出来ないのであります。

 

そして、一般のテレビや新聞が、勝者が決まっているレースの結果を、他の自転車競技と同じ表現で報じるのです。自分にとってこの行為は、自転車競技そのものを冒涜し、価値を陥れ、過去の真実のチャンピオンの功績を、無きものとしているとしか思えないのです。

 

さらに今回は、自分の中で一番重要な関心項目である優勝が、あろうことか故意のブレーキでの減速で決まってしまいました。これは、エキシビジョンと定義していても、お粗末であることには変わらないのですが、それを気にしないファン層がいると思ってしまったことに、何よりの衝撃を受けたのであります。

 

他にも、何十項目にもなりそうなほど、このイベントには多くの話題があると思っているのですが、ここでは、私なりに今回分かったことのみを反省点と共に抜粋して記していきます。

 

 

エキシビジョンか否か、

 

まずは、大前提となる私の認識ですが、ここで責任転嫁をしようとは思っていませんが、大会側がエキシビジョンとしていて、選手もエキシビジョンらしい発言であれば、ここまでの憤りを覚えることはなかったと思います。

 

また私自身も、大会側がエキシビジョンと大きく公表したのなら、さいたまに行きたい気持ちはあります。というか行きたいです。自分も正直なところフルームに会いたいです。走りが見たいです。それに、所謂にわか層をレース現場から排除したいとは、私自身全く思っておりません。当然、もっと増えることを本気で願っております。

 

しかし今の形式では行くことはありません。自分の個人的で短期的な喜びのためだけに、信念を曲げるつもりはありません。絶対に賛同出来ないのです。

 

 

最近では、エキシビジョンという言葉そのものの認知度も上がって来ています。例えばテレビのゴールデンタイムでも放送されている、フィギュアスケートのエキシビジョンが、「順位を付けない・表彰式も無い」形のイベントだと、世間一般に知られていると思います。

 

相撲の地方巡業も、一種のエキシビジョンとして見られているのは明白です。なぜなら、”本場所”との名称の差もありますが、本場所とはプログラムも全く異なるからです。

 

プロレスは、存在そのものがエキシビジョンです。他の同じようなリングを使用した格闘技と、通常混ざって開催されることは無く、選手も完全に独立して存在しています。

 

しかし、さいたまクリテリウムは違います。他のサイクルロードレースと、同じ選手が、同じようなコースでレースをするのです。一般の人にはどう見られるでしょうか?日程的に近いイベントであるジャパンカップと区別がつきますでしょうか?

 

今回で言えば、会場で見ていた人も、テレビ中継で見ていた人も、テレビのニュースや新聞で知った人も、日本のトップレベルの選手が二位で、英国人の選手に負けたことになっているのです。そして、相当数の人の記憶の中では、二位の選手が「力負けをした」ことになっているのです。

 

「これはエキシビジョンだから、華レースだから、興行だから、」

 

そう思ってこのイベントを見ている人は、実はごく一部なのかもしれません。大多数の人は、選手達が「勝利を本気で狙った」末の結果だと捉えているはずです。その中には大人もいますが、皆さんが口々に言う、未来ある子どもが大勢含まれているのです。

 

 

 

嘘か真か、

 

 

今回のレースは、これまでとは全く違います。先ほども述べましたが、二位の選手がフィニッシュ直前でブレーキをかけて、故意に減速して他の選手に優勝を譲ったのです。これは、写真を見ても、映像を見ても明らかです。当該選手は絶対にこの話題に触れることはありませんが、これを読んでいて疑う人はいないと思います。

 

こんなことは、私や他の者が指摘しなくても、既に誰もが気付いていたのかもしれませんし、いずれ気付くのかもしれません。気付いても全然気にしない人もいるでしょう。しかし、この競技そのものを疑う人は必ず発生してしまうのです。

 

特に残念で心配していることが、将来自転車競技を目指す世代の子ども達が、これを見たら、知ったらどうなるのですか?スター選手が負けたのも受け入れなくてはならず、さらにそれが「わざと」だということを受け入れられますでしょうか?

 

選手を目指す目指さないに関わらず、中には全く気にしない子もいるでしょう。それどころか、自分が大きくなって外国の選手に勝つ!と意気込む子もいるかもしれません。ほんとはそれくらい図太くあってもらいたいです。

 

このブレーキ”問題”は、当該日本人選手を批判してはいません。そうしなければならない「システム」を批判しているのです。もしエキシビジョンとしていれば、英国人選手が勝利するシナリオだったとしても、二位の選手が最後に少しだけ力を抜くことが出来たでしょうし、それでも誰も批判はしません。

 

しかし、さいたまクリテリウムではそれは許されないのです。なぜなら、他の”本気”レースと同じ”本気”レースだと一般に広告しているのですから。本気レースの勝負所で、ここ一番で足の力を緩める選手は、アクシデントで無い限り存在しません。

 

 

 

にわか層や子どもこそ大切に、

 

この問題で、一番深刻な影響を受けると思っているのが、初めてレースに来るような人や、未来ある子どもです。気にしない人もいるでしょうが、程度の差はあれ、落胆する人は必ず生まれます。二度と関係したくないとなる人もいるかもしれません。

 

なぜ、こんなことを考えなければならないのか?エキシビジョンとさえ言えば、こんなに気をもむこともなかったのにです。選手に負ける演技をさせてしまう、今の形の運営は止めて、エキシビジョンと言うなり何らかの解決策が必要だね、とならないものかと思っていました。

 

そんな状態の中、幾らかの割合の自転車レースファンは、「エキシビジョンと名乗る必要性を感じていない。」のではないか?と、そこが最も疑問に思ったのであります。エキシビジョンと言っていなければ、事情を知らない者からしたら、他のレースも含めて、イカサマと思われかねないのです。

 

さいたまクリテリウムをどう表現するかに関して、最も多数は無関心層であるでしょうし、ネット界隈で探しても、それは世間の一部なのは分かっています。それでも、特にレース会場に熱心に足を運ぶ人まで、なぜかブレーキ問題に無関心のように思えてしかたがありませんでした。

 

そこからは、ご覧頂いた通りでございます。筋書きの有る無しに、どうしてここまで無関心なのか。筋書きが無いスポーツイベントを、筋書きが有るさいたまクリテリウムとなぜ同列に扱えるのか。子どもに嘘付いてなぜここまで平気なのか。

 

初めて来たようなにわか層を大切に思えばこそ、レース結果に混乱しないように、後で落胆させないように、親切にエキシビジョンですとなぜ言えないのか。これは結果どうこうじゃないお祭りで、さいたまに来て走ってくれるだけで、イベントは大成功なのってなぜ子どもに言えないのか。にわか層をないがしろにしているのではないかと思ってしまったのであります。

 

 

開催を続けるのであれば、エキシビジョンとすべきと思っていた私と、それをあまり気にしていないように見える方々は、この話の前まで、実は同じ考えだと思っていたのです。その同じ仲間に裏切られたという勝手な感情が、暴走の発端だったと思っています。一人ひとり違うのは当たり前で、いくら観戦に慣れたもの同士でも、決定的な違い持っていても不思議でありません。今、こう分析している私自身が情けないです。

 

そこからは完全に、私は自爆的行動に移っていきました。読み返すと、言っていることが、全てブーメランとして自分に帰ってきているのが恥ずかしいです。皆さんは、単純に開催を止めろという意見に対して、反対であると思っていたのかもしれません。さらに言えば、皆さんエキシビジョンとなるのが理想であると、思っていたのかもしれません。

 

しかし、その時の私には、そのような想像は出来ませんでした。改めて落ち着いて考え直しましたら、今更ながらある考えに行き着きました。その結果、私自身の混乱の原因と、その混乱した文で、皆さままで不快な思いと共に混乱させてしまった原因が、なんとなく分かったような気がしました。

 

正直な話、この投稿全体が、恥の上塗りであるのも、また自己正当化していると取られる主張であるのも、私自身十分に理解しているつもりです。これからお話しする考え方は、自分が知らないだけで常識なのかもしれませんが、日本の自転車競技の発展のために、稚拙な論ではありますが、このまま続けますことをお許し下さい。

 

 

2タイプ分類か4タイプ分類か?

 

私は、自転車レースファンを分類した場合、従来でしたら下のように、熱心な層と、にわか層の2つのタイプに分かれると思っていました。この一つの熱心な層は、一体であるという勝手な勘違いをしていたのです。

 

 

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(各層の表現は、今後他の適切な語句があるのか考えていきたいと思います。)

 

 

 

この2タイプ分類自体は、至極あたりまえの分類で、当然のことで間違いではないのですが、今回のさいたまクリテリウムの話に関しては、4タイプ分類が適切だと思いました。またこの視点は、これからの自転車レースファン獲得に、ヒントになるのではないかとも思います。

 

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 (各層の表現は、今後他の適切な語句があるのか考えていきたいと思います。)

 

 

この分類は、今回の私自身が起こしました騒ぎで、大きなご迷惑をかけた方々の言葉を、自分なりに消化した末に出てきたものです。

 

特に、「自転車レースが本当に好き、将来を憂うなら考えるな感じろ。」

 

この言葉に刺激をもらいました。私自身、何を求めているのか、皆さんは何を求めているのか、思いを巡らした次第でございます。

 

以下に説明させていただきます。

 

まず始めに、言葉の捉え方の違いから、この分類の発想が芽生えました。

 

それが、ガチと本気です。

 

私は、”ガチ”と聞けば、結果が、つまり優勝者の争いが、ガチであると思っていました。ガチなレースとは、選手が目の色を変えて勝利を狙ってくるレースで、ガチじゃないレースは、簡単に言えばエキシビジョンです。これは”本気”でも全く同じ感覚です。

 

 

しかし、さいたまクリテリウムで、選手の力の出し加減がガチ、本気の力強い走り、などと言われても、それが出来レースである限り、勝利へのガチや、勝敗に関わる本気でないので、全くピント来ないのです。ガチに近い加速、本気に近い牽引など、言葉を加減すればわかるが、勝利を本気で狙ってないのに本気の走りとは、どう考えても受け入れることが出来ませんでした。

 

 

 

私はどうせやるならガチなレースを本気なレースをと主張しますが、一方で、さいたまクリテリウムもガチである、本気であると、その上で、実際にさいたまに来て、イベントを見ても無いのに、ガチじゃないとか本気じゃないとか、言える権利はない、となるのです。誠にお恥ずかしいのですが、正直な話、今日まで全く理解出来ませんでした。

 

 

真剣なレースが見たい、も同じ図式で理解出来ませんでしたし、迫力のあるレースと言っても、それなりに迫力はあるだろうけど、本物のレースほどじゃないでしょ、と懐疑的でした。しかし、そう主張する人は、それなりに存在します。そう全力もしかりです。

 

 なぜ同じ観戦のベテランが、同じ言葉を聞いて見解が分かれるのか?

 

それは、レースの勝利や勝利への過程(結果)を楽しむことに、第一の主眼を置いている人々と、レースなのだから勝敗があるのは当然で、それも要素だけど、そのレースの盛り上がり、迫力のある選手の走り(動き)、雰囲気をなどを楽しむことを第一としている人々が、同じ玄人層にもいるのではないか?

 

 

しかも状況によって、柔軟に立ち位置を変えられる人もいるかもしれません。特にさいたまクリテリウムを最高に楽しんでる玄人層の皆さんは、その立ち位置を変えられる人々なのかもしれないのだと思えてきました。

 

また、勝利が主眼の人々の中には、一切立ち位置を変えない人もいるのでしょう。もしかしたら、これが従来良くいたかもしれないおじさま方で、レース会場で怒鳴ってきた?ような人はこの立ち位置なのかもしれません。

 

 

私はどちらかと言えば、結果主眼の中を、たまに境界線付近まで右往左往していると認識しました。見るレースによって、立ち位置を移動はしても、エキシビジョンでない限り最終的な勝利を重視する見方から、外れたことはないと思います。

 

 

 

 

つまり、レースを普及させるための活動で、楽しんでる、楽しませたいという対象は、

 

今までは、

 

素人、にわか層、初心者、ライト層

玄人、熱心な層、経験者、ストロング層?(アーム・・・みたいで何かやだな、)

 

の2つの分類だったのが、

 

熱心な層にも二つ、

熱心な層で結果を重視

熱心な層で動きを重視

 

にわか層にも二つの 

にわか層で結果を重視

にわか層で動きを重視

 

の4タイプの分類が適切であると思います。

 

 

 

もしかしたら、私の最低な投稿を見て、不快になりながらも、いくらかは同意してくれた方は、結果を重視する側で、そうで無い方は、動きを重視する側の可能性が高いのではないでしょうか?

 

 

そしてこれは、エキシビジョンとするべきという人と、それを重視していない人との分かれ目でも思うのであります。もちろん、結果を重視している側が、エキシビジョンにせよと訴えているのだと思います。

 

 

いつもは結果を重視している人が、『これはエキシビジョンである』と認識したイベントでは、結果を重視しない出来レースモード思考に変化していて、スプリントでのブレーキ行為も、あまり気にならないのではないでしょうか?また予め勝者が決められた、出来レース興行イベントという認識がるので、勝利には特に意味はなく、一般の出来レースであることを知らない人とは、元々全く違う感覚なのかもしれない。

 

 

つまり、自分が無駄に憤慨していたのは、初めからレースの見ているところが違うか、違う状態の方々であった可能性が高いのではないかと思うのです。そのように考えましたら、今回の暴走の無意味さがよくわかり、心底申し訳ないと思えて来たのです。

 

 

もし、上記の考えが適切であるなら、さいたまクリテリウムを、明確にエキシビジョンと表明しなければならない理由が見えてきます。当たり前な話ですが、にわか層にも、結果を、勝利や勝利への過程を第一とする側がいるからです。

 

 

さいたまクリテリウムを見に行って、その後に、そのレースが出来レースであると知り、大きく落胆する人々は、図で言う左側にいるのかもしれません。特に何年経っても全く立ち直れない人は、完全に左端というわけです。もしかしたら、にわか層にも初めから、レースの戦略的動きに関心を持ち観戦する人がいるのかもしれません。

 

 

また、全く意に介さない人は右端で、事実を知った当初は動揺したとしても、その後に回復したと思える人は、立ち位置が最初から右寄りか、時を経て右に移動したか、状況により移動出来る人なのではないか?

 

 

以上の分類は、非常に感覚的であり、裏付ける根拠は一切ございませんが、少なくとも、私が、私自身を理解するのには役立ったと思います。自分が右側の人々の感覚を、どうにも理解出来なかったのだと思います。

 

 

同じ様に、なぜ、これだけ真実を知り落胆した人がいるのに、それに対して、有効な手だてを採用するべきだと、玄人の方々がならないのかが不思議だったのですが、右側の人で、さいたまクリテリウムがエキシビジョンであるとの認識を持っている人には、悪意がある訳ではないのかと思っています。

 

 

そして、落胆した人や、これまでもいた批判する人のことも、悪意がある訳ではなく、左である私が、右側の方々を理解出来なかったように、左側の方々を認識出来なかったのではないでしょうか。今回、ファンの指向は多様であると改めて感じました。

 

 

この4タイプ分類があれば、それぞれの立ち位置を認識することで、お互いが話せると思いますし、今後のレース会場への集客のヒントも掴めるかもしれません。

 

 

この考え方は、自転車乗りの関心の方向性とも似ているかもしれません。メカのことに関心が無いベテランと、メカに強い関心が有るベテラン、メカに強い関心が有るビギナー、そして、メカに関心が無いビギナーがいるようにです。

 

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熱い応援で知られるベルギーでも、こういった分類が出来るかもしれませんが、分布に関しては、日本とは大きく違うかもしれません。

 

 

やはり、エキシビジョンを言わず、勝敗を初めから決めている、今のままの方式が正しいとは思いません。程度の差はあれ、出来レースと知って裏切られたと思う人は、確実に存在します。この事実は、子どもが将来選手になるかもしれないという、不確定な対象とは重さが違います。

 

 

どれだけ盛り上がったとしても、嘘のレースの存在は許されません。真実のレースの存在価値を落とすことにつながります。どれだけフォローしたとしても、嘘のレースを見せられたやるせなさや、真実だと思っていて喜んだことの空しさは消えません。

 

 

興行レースだからいくらかの嘘は許されるという主張は、興行レースだと認識していない一般の層を、最も増える可能性のあるにわか層の一部を、結果的に切り捨てているのと同じではないのか?さいたまクリテリウムは、新規ファンを増やすためといいながら、その新規ファンの思いを、本当に受け取れているのでしょうか?

 

 

始めから、フォローを前提としたシステムが、賢いやり方とは到底思えません。ただ、日本の他のイベントでも言っているように、エキシビジョンだと言えば、ほぼ全てが解決するのですから。新たにお金が必要になる訳ではありません。言うだけです。

 

 

場合によっては、表彰式をしないくても良いと思うし、レースのラストは、舞台のカーテンコールのように、主役を先頭に、全員が一塊でフィニッシュラインを通過しても良いと思います。それこそ、エキシビジョンに相応しいフィナーレだと思います。

   

 

最後に、今回特にご迷惑をかけたAさんには、謝罪をするとともに、勝手ながら感謝致します。今回のテーマの話3編のレポートが、私とあなたが、対立するものでないことを教えてくれて、さらに、新たな認識を与えてくれたことを感謝致します。思考の出発点が異なっていたことがよく分かりました。エンタテイメントとしてのレースと、競技としてのレースの違いを、お互い認識を高められたらと思います。

 

 

本当は、不快な思いをさせてしまった皆さまと、直接コンタクトをとり謝罪したいと思っていますが、このような文章で失礼させていただきます。